昨日のつづきです。
相手のことを罪深いとして裁くのは、実は自分の心の中にある罪悪感の投影なのです。だからこそ、自分の罪と相手の罪は全く同じものだと言えるのです。
自分の中に罪の意識が全くなければ、自分の周囲に罪深い人を見つけることはできません。逆に強い自己嫌悪や自己否定などと一緒に激しい罪悪感を持っていると、周りに執拗に罪を犯す人がいたり、加害者的な人が沢山出現することになってしまいます。
ということは、自分の罪深さを赦すことができたら、相手の罪も赦すことになるわけです。そして、その逆のことも言えます。相手の罪を赦すことができたら、自分の罪悪感も解消されるというわけです。
特に、自分の罪悪感をあまり自覚できない人にとっては、相手の罪を赦すことに専念することで、無自覚のまま自分の罪悪感を減らしていくことができるのです。
「奇跡のコース」では、このことを繰り返し言い続けています。しかも、罪を赦すというよりは、罪は無いとして赦すということです。
その本質的な赦しの方法によってのみ、完全に赦すことができるのです。完全に赦すことができると、罪が消滅してしまいます。というより、元々罪というものはなかったと気づくと言ったほうがいいですね。
罪は自分と相手の間を埋めているものと、以前のブログでお話ししましたので、その罪が消滅するということは、相手との隔たりがなくなってしまうということです。
そして、私たちはそれぞれに違うことを考えて生きている個体であると思っていたものが、元々の一つの存在に戻るということです。