昨日のつづきです。
子供の時にふと思っていた、自分とは何なのだろう?という疑問について、それを真剣に紐解いていくことで人生をより幸せな方向へと向かわせるという、その理由について考えて行きたいと思います。
私たちは6歳くらいからの義務教育のスタートと共に正規の教育が始まりますね。勿論その前から英才教育と称して幼稚園その他でも教育する場は沢山あります。
いずれにしても、『あなたは、こういう存在で、こういった目的のために今ここに居るのです。』といった、教育というのはされることはありません。
それはそうですね、学習過程を作る人にとっても先生や親にとっても、誰にも分からないようなことを子供に教えることはできませんから。
日本の常識では、そういった種類のことは宗教などの教えとして、あるいは個人的に興味があればそれなりの年齢になって書物などを頼りにして勉強すればいいことという捉え方をしていると思います。
そして、誰に教わるでもなく、気がつくと自分は当然のように人間として生まれて、この世界でしばらく生きて、そして死んでいくのだと結論付けてしまいます。それが自分というものなのだと信じてしまうのです。
一度信じてしまったことは、よほどのことでもない限り、それ以降疑うこともしなくなるし、その信じていることを覆すことは非常に難しくなりますね。
しかしなぜ、誰にも明確に教えてもらったわけでもないのに、このような一つのことを誰もが信じてしまうのでしょうか?
それは、人は自分の知覚(五感)を信じているからです。すべてはそこから始まっていると思います。自分が見るもの、聞くもの、触るもの、そういったものは実在としてあるという認識をします。
なぜなら、自分の知覚を信用しているから、感覚から入ってきた情報を鵜呑みにして、それをベースにしてこの世界を認識してしまうのです。
そして、普段はそんなことも忘れて生活しています。もし、自分の知覚を疑うとしたらどうでしょうか?自分の存在も、この世界である自分の周りの実在もすべてが怪しくなってきますね。
幻覚、幻聴というのはありますが、そうではなくて、普段の自分の視覚、聴覚を疑ってしまうのですから、それこそこの世界がひっくり返るくらい大変なことになっても不思議ではありません。
実は疑う価値があるのです。もし、自分の本当の姿を隠して、ニセモノの自分として生きていたら、満たされた幸せな状態になるでしょうか?私は自分が何をやっても完全には満たされることが無いのはなぜかと真剣に考えたのです。
そして出た結論は、満たされない真の理由は、本当の自分とは何ものかに気づかずに生きているからなのではないかと思ったのです。自分の本当の姿を自分は心の奥で実は知っている。
でもそれを思い出したくないなんらかの理由があるために、気づかないようにされている。だから、何かがしっくりこないような、何とも言えない感覚を抱きつつ生きているのだろうと思ったのです。
本当の自分を探すには、今まで何の疑いも無く信じていたものを全部一度白紙に戻して、見つめなおす必要があるのです。それ以外に方法はありません。
だから私は幼い頃の自分の感覚を信じて、つまり自分の知覚に違和感があるなという気持ちを思い出して、再度、この五感はホンモノなのかを疑うことを始めました。
そうしたら、そこに思いも寄らない世界が広がってきました。ものすごく強力な後押しをしてくれたのが、他でもない、「奇跡のコース」でした。
皆さんも自分の正体を知りたくはないですか?これはただの興味ではなく、本当に満たされた平安な心で生きていくうえで欠くことのできないことだと思うのです。
目的はとにかく単純です。いかに幸せになるかということですから。このことを一度心静かに見つめてみてはいかがでしょうか。