永遠について その2

昨日の続きです。変化するものしかないというこの世界において、愛という漠然としたものをずっとイメージで追っていくと、どうも不変なものだという感覚がやってきます。

真実の愛が変化するというイメージはどうしても湧いてきません。我々の恋愛における愛は、結構コロコロと心変わりするようですが、これはどう考えても真の愛ではありませんね。

そして、もしも愛である神がいて、その存在がこの変化しかあり得ない宇宙を創ったのだとしたら、ヘンだと思いませんか?永遠の愛である神が何でその存在とはかけ離れたこの世界を創るのでしょうか?

答えは二つあると思います。一つは、神はいないとすることです。もう一つは神はいるが、神はこの諸行無常の世界を創ってはいないとすることです。あなたはどちらの考え方が気に入るでしょうか?

もしも前者の方を好むのでしたら、この世界は偶然に生まれたものですから、それが変化し続けようがどうしようが議論の余地はありません。しかし、後者を好む場合はどうでしょう?

神はいるがこの世界を創ってないとすると、またまた二つの疑問が浮かんできます。一つは、ではこの世界はどうやって創られたのかということ、もう一つは、神の世界はこの世界とは違う永遠の世界として実在するのか?ということです。

神はあらゆるいっさいであるとしたら、神以外のものはないのですから、この世界が神の手を離れて別の誰かが創ったとすることは不可能です。とすると、神はいるとするなら、この世界は実在しないということになります。

そして実在するのは、神である永遠の愛の世界だけということになります。でも困ったことに私たちはこの諸行無常の世界に生きているという実感を持ってしまっていますね。これはどう解決したらいいでしょうか?

そこで、例の投影を思い出せばいいのです。エゴは望むとおりの知覚を作ることで、あたかも自分の外側にこの世界があるように実感させているということですね。

ここまで話を引っ張ってくる言動力は何かなと思うと、それはどうやら自分の心の奥のどこかにデンとした愛の存在を感じるからだと分かります。愛の表層の部分だけを感じているのだろうと思いますが、全体を感じなくてもそれがどれほどのものなのかどこかで知っているような感覚もあります。

これがすべての土台のように思います。神というとちょっと違和感がありますが、すべては愛であってそれは不変である、この感覚こそかけがえのないものではないかと思っています。

怖れ、不安、怒り、絶望、渇望、悲しみ、孤独、そういった愛以外のどんなものも永続性を欠いています。だからすべて知覚による錯覚の産物だと捉えるのが一番合理的ではないでしょうか?愛はそういった世界とは関わることができません。

愛だけが実在であって、それ以外はすべて錯覚なんだという結論に到達してしまいました。永続性のないものは、つまりこの世界はすべてまやかしだということです。

本当の幸福とは、永続的な心の平安であるとこのブログでもお話ししているように、真に大切なものは不変なのです。不変なものが一つもないこの世界に生きていると思わされている我々は、どうやったら不変なものを身にまとって生きていくことができるのでしょうか?

それは錯覚から目を覚まして、自分自身の本当の姿を思い出すということになるのではないでしょうか?不変であるものを身にまとう必要はありません。自分自身が不変である存在だということが分かればいいのですから。

自分だけではなく、目の前にいる相手も自分と同じ永遠の存在だということに気づくことでもあります。それを実践を通して、学んでいく方法を提供してくれるのが、「奇跡のコース」なのですね。