昨日の続きです。イエス様の言葉である、「弟を赦してあげなさい」と言った場合のこの赦すとは、本当はどんな意味があるのでしょうか?そこのところを少し考えていきたいと思います。
怒りが消えて、お父さんのように弟が戻ってきたことをただただ喜ぶ状態になったら、それはもう赦していると言えると思います。しかし、そうはできない心の反応が兄の内面に出現したということです。その理由も昨日説明しました。
もしも兄が弟を赦すとすると、兄の心の中で抑圧されていた、我慢していい息子を演じてきた自分というものを守ることができなくなってしまうのです。つまり、赦さないとは、自分の中にある鬱憤を守るための心の作戦だったわけです。
結局、赦さないというのは一つの防衛の形であるわけです。なぜなら、赦さないという心には必ず相手への怒りがあり、怒りは典型的な自己防衛の一つの形だからです。抑圧による自分の心の傷、痛みを守るために、相手を罪深いとして罰しようととするのです。
これが赦さないという心の状態であると言えると思います。ここで、断じて赦しがたいという状況をちょっとイメージしてみましょう。例えば、暴漢に家族が襲われて命を落としたとしたら、どうでしょうか?少なくともその犯人に死んでお詫びをしてもらわないと赦す気にはならないかも知れません。
その場合、犯人にどんなに反省した態度を示してもらっても、そう簡単に気が収まるはずもありませんね。それは、自分の心の傷が深いうちはそれを守らねばならないと感じるためです。だから赦せないし、赦す気にもならないのです。
結局相手の態度がどうであれ、自分の傷を負った内面を守らねばならないと感じてる限りにおいては、赦すことはできないのです。もし、赦すとしたら、自分の傷が癒えるか、自分のことを被害者ではないと理解することができた時です。
傷が癒えるのを待っていたらいつになるか分かりません。その時までずっと相手を憎んで絶対赦すもんかという人生を送らねばならないのです。これは客観的にみて地獄の生活かもしれません。
しかし、自分を被害者ではないと理解することで、大切な人を失った痛手は残っていたとしても、犯人を赦すことができるのです。自分が被害者でなければ、相手は加害者ではなくなるからですね。
どうやったら自分は被害者ではないと思えるか?それは何度もこのブログで説明してきた投影のメカニズムを思い出すのです。理由はともかくとして、潜在意識の中の何かを投影した結果として、上記したような事件が起こったと認めることです。
こうすることで、傷ついたことを犯人のせいにすることができなくなり、結局犯人には罪がないと認めることになって、相手を赦す心の状態になることができるのです。それが、心の平安を得ることに繋がるのです。
放蕩息子の例で言えば、兄が自分の抑圧した心を投影した結果として、弟の自由奔放さを発生させたのだと兄本人が理解することができれば、弟には罪はないと分かるのです。かえって、自分の本心を見つけさせてくれたとして弟に感謝したくなるかもしれません。
そして、父親と同じように勝手ばかりしてきた弟を赦すことができたら、兄の心はとても晴れやかなものに変わることでしょうね。だから、赦しは幸せへのパスポートだと言ってもいいのです。