無防備になるということが、どれだけ人生を幸せなものにするのに大切な事なのか昨日のブログで分かっていただけたかと思います。今日は、もう一つ、無防備になることの代表的なものである、「言い分を手放す」についてお話させていただきます。
言い分というのは、程度の差を考慮しなければ、文句、愚痴、言い訳、などと同じものなのです。それでは、言うべきことをきちっと言うという場合、それは言い分になるのかどうか、ここを考える必要があります。
簡単に言ってしまうと、言うべきことをきちっと言う場合に、防衛しようとする気持ちの部分が含まれているかどうかで、それが言い分になるかならないかが決まります。例えば、先生に答えを要求された時に、自分が分かっている答えをしっかり発言するのは言い分ではないはずです。
一方、答えが間違っていた時に、さっきの説明を聞いていたら分かるはずなのに、と先生に叱れたとき、説明が分かり辛かったので、と言ったとしたらこれは言い分になりますね。これは言っても言わなくても、自分が答えを間違ったという事実は変わらないからです。ここには防衛の匂いがすると思います。
この5月から日本でも裁判員制度が始まりますね。法廷で無防備な人を見ることはなかなか難しいのでしょうね。なぜなら、裁判というのは、国が定めた規則にのっとって、互いの言い分を言い合う場であるからです。
ここで無防備になって、言い分を言わないということは、被告で言えば、自分を弁護する言葉をいっさい言わずにおくということですから、相当に無理がありますね。また、原告で言えば、言い分を言わないということは、訴えを退けるということになってしまいます。
もしも、被告として自分がしたことをすべて認めているという場合には、無防備になって判決を待つという人も中にはいるかもしれません。そのような場合には、誰よりもその人の心は平安に保たれているはずです。
最後に、無防備な人は攻撃などしないですよね。攻撃してしまったら、無防備が云々というレベルではなくなってしまいます。だから、どんな理由があるにせよ、攻撃を正当化することは絶対にできないということです。
無防備でいられる人は、相手を攻撃しないし、否定もしない。何の言い分も持たず、裁くこともしないし、結果として相手に攻撃させないので相手を加害者にすることもありません。 いつもお伝えしている、本当の幸せである永続的な心の平安は無防備でいることに違いないのではないかと思います。